旧二条城跡(京都府京都市中京区二条殿町)

信長が信忠に家督を譲ったのは功績を残したから...?

1575年(天正三年)11月28日、織田信長は嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)に家督を譲りました。

元服してから、たった3年後に家督を譲られることになった信忠。
しかし信忠は、その3年の間に石山本願寺との戦いや、伊勢・長島の一向一揆の制圧などに参加し、数々の功績を残していました。
そして、その功績が信長から認められ家督を譲り受けることになります。

家督を継承させた際には、多くの城や家宝を信長から与えられ、中には「日本三大敵討ち」の一つとして有名な曽我五郎由来の太刀「星切」まであったとか。

事実、信忠の戦術は目を見張るものがありました。
武田家を高遠城へ追い詰めたときには信長の制止を振り払いながらも、見事に勝利を収めます。
そんな活躍を見て、信長は家督を信忠に譲ろうと考えたのかもしれません。

しかし、あの「本能寺の変」で信忠も命を落としてしまいます。

信長の滞在した「本能寺」は塀や石垣もあり、敵の襲撃に備えた造りになっていましたが、反乱を起こした明智光秀の兵に対し、信長の兵はわずか。
その戦力差に本能寺はひとたまりもありませんでした。
そして、信忠は父である信長の救出を断念すると、逃げるのではなく二条御所(現在の二条城)へと向かいます。

二条御所には当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王一家が暮らしていたこともあり、信忠はとっさの判断で皇族を逃がす行動に出たのです。
皇族を逃がした後、信忠は明智軍と戦うために二条御所で篭城戦へと持ち込みますが、その圧倒的な戦力差になす術もありません。
数々の功績を残したことで信長に認められた信忠も、父・信長と同じように自害することになるのでした・・・。


ちなみに本能寺の最大のミステリーとも言われる、自害した信長の遺体の行方・・・。
どの文献や当時の記録にも、信長の遺体がどうなったのかは記されていませんが、信忠の遺体も見つけることができなかったと言われています。


本能寺の変の時に織田信忠が自害した旧二条城跡には、現在石碑だけがあります。
京都市の地下鉄東西線「烏丸御池」からすぐ近く、京都国際マンガミュージアムの西側に石碑がたっていて、静かにその歴史を伝えてくれています。


NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の織田信長と信忠

織田信忠(おだのぶただ)は安土桃山時代の武将で、織田信長の後継者です。
幼少のころから父である信長の戦を見てきた信忠は、20歳ごろには総大将として指揮を執るほどに成長します。
武田攻めでは武田勝頼を早期に滅ぼすなど、その有能さに信長も驚くほどでした。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で織田信長を演じるのは、俳優の染谷将太さん。
染谷将太さんはどちらかというと少年のような顔立ちなので、「麒麟がくる」に登場するのは信長の若いころなのかもしれませんね。


そして信長の嫡男「織田信忠」はどなたが演じるのでしょうか...。
明智光秀が起こした「本能寺の変」で26歳で命を落とす信忠。
演じる俳優さんが気になりますね。


【オススメの本】
明智憲三郎さんの
「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求 
が面白いです。


「秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申し候」―刑事・民事の裁判には、判決が確定した事件について、法に定められた事由がある場合に判決を取り消して、裁判の審理をやり直すよう申し立てることが可能です。これを再審請求といいます。

本書で解説するのは歴史捜査で得られた光秀謀反の動機と実行経緯についての定説・通説の変な話、そして定説・通説を支えているこれまでの研究の変な話をどうやって暴いて真実に迫っていったかを明かす、いわば再審請求のための公判記録です。


本能寺の変 431年目の真実」を執筆した、明智憲三郎さんの続編ともいえる書籍。
「歴史捜査」といわれるとおり、私たちが常識だと思っていた歴史のイメージが、ドラマや映画で脚色されたものだったことが書かれています。


「織田信長」というプレッシャーにも負けず、最後まで機転を利かせ活躍した信忠は、天晴れの一言に尽きますね!